以前の私なら、相手へ理解を求めていたでしょうが、対人関係療法を学んでからは、どうやらその辺が楽になったように思えます。
(対人関係療法では誤解をされてはいけない相手と、誤解されても良い相手を別けて考えます。)
といった欲求は、自分の心に不安の影を落とし、良くない妄想にかき乱されたりすると思います。
そんなアナタにピッタリな話があるんです。良かったら、読んでみて下さい。
ある日、松蔭寺の門前に棲んでいた財産家の信者の娘さんが、ふとしたことで妊娠してしまいました。信仰のあつい父からは、だれの子か、だれの子かとはげしく聞きただされましたが、はずかしくていえません。父があまり責めるので、おそろしくなり「白隠さんのこどもです」と答えて、父の怒りからのがれようとしました。つね日ごろ、禅師の大崇拝者であった父は、それを聞いて、だまってしまいました。父はその後、一言も娘にものをいいません。やがて月みちてこどもが生まれるやいなや、こどもを娘の胸から引きちぎり、松蔭寺を訪ね、泣きさけぶこどもを禅師のまえに投げだして、「お前は、えらい坊さんだ、とおもっていたが、とんでもない坊主だ。人の娘にこどもを産ますとは、なんたる生グサ坊主だ。さあこの子をひき取ってくれ。あきれた奴だ・・・・・・」とあらゆる悪口をいって大声でののしってかえってゆきました。禅師は、「ああ、そうだったのか」と、泣きわめくこどもを抱えて飴で赤子を育てはじめました。それで、禅師の信用はすっかりなくなり、尊敬する人もいなくなり、いままで大勢いた松蔭寺の弟子たちも、禅師をすててたち去ってゆきました。禅師はいつもとかわらず、勤めをおこない、赤子を抱いて、村々を托鉢して歩き、こどもを愛し育ててゆきます。禅師の姿を見る人々のなかには、罵詈や、嘲笑をあびせかけ、石をなげたり、塩をまいたりする人もおりました。ある雪のふる日のことでした。いつものように禅師は赤子をだいて、軒々を托鉢してあるいていました。その禅師のうしろ姿を窓からのぞいた赤子の母親は、母の情がおさえがたくもこみあげて、おのれの心の責苦に耐えかねて、ワーッと泣きだして父のまえに、
「あの子は白隠さんのこどもではないのです・・・・・・」と本当のことをうち明けました。父はビックリして、いそいで禅師のところに走ってゆき、身の置きどころもないほどはじて、謝りました。禅師は、ただ一言「ああ、そうか・・・この子にも父があったのか」といってこどもを父に手わたしました。ただ、それだけでした。このことがあってから、禅師を慕う人がますます増え、以前よりも多くの人が松蔭寺に集まってきました。禅師は何も言わず、また何ごともなかったように、平常の通りの勤めをはたしていたそうです。

これは勝手な私の想像ですが、きっと、起きた現状が、どんな理不尽なことであれ、神から与えられたものであるからして、受け入れたのだと思います。「誤解をされる」も、神から与えられたこと。その「誤解をされる」ことで得た体験が、「赤子を育てる」という体験、そして「赤子を授かった」現状が在る。ただ、それだけのことなのではないでしょうか。
何をあたふた誤解を解く必要がありましょうか。誤解は、常にされている。し、自分だって誤解をしているかもしれません。人は完全に人を理解することは出来ないのです。相手を完全に理解することよりも、大切なことは相手をどう感じているか、だと思っています。
現状よりも、感情。現状に感情が振り乱されてはいけません。
そして、今の自分に出来る事を、ただ、ただ、やる。それで良いでしょう。
このエピソードから、あなたはどんなメッセージを受け取りましたか?
何を感じ、何を学びとる事が出来たのでしょうか。
「白隠禅師」について
「白隠禅師」は、貞亨二年(1685年)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市 原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。 幼い頃から聡明で、六才の時お寺にお参りをして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話を語って聞かせたといいます。十五才の時、松陰寺で出家し、慧鶴(えかく)となずけられました。十九才の時諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、「臨済禅中興の祖」と仰がれるようになりました。亨保二年(1717年)松陰寺に入り住持となり、その翌年「白隠」と号しました。「白隠」の名は全国に知れ渡り、「駿河にはすぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われました。「白隠禅師」は又禅画にも堪能で、釈迦・達摩・観音などを好んで描きました。 それらの禅画は松陰寺などに多数現存しています。明和五年(1768年)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より「神機独妙禅師」の諡号を、明治天皇より「正宗国師」の諡号を送られています。
