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Diary

夢と成功と理想

濃く、深く、潜在意識にある自分の成功を手に入れている彼らは、沢山の浅く、広い、本当はどーでもいいもんを大量に捨てて来たんだ。そのどーでもいいもんは、この濁ってしまった世の中の常識で、殆どの人が流される「価値」。それでも流されずに、私はこれが欲しいんじゃ!と、ただただ自分を信じて突き進んだ人だけが手にとれる成功。
カウンセリング中、成功ってなんですか?って聞かれることがよくある。そして私も沢山の社長に訪ねてきた。昔の私には答えられなかったから。でも今なら「成功」が何であるか、私は、はっきりと分かる。人の成功とはなにか。きっと、皆おとなになるにつれて気付くんだ。

私の失敗体験談

子供の頃から、失敗をしたことが無かった私は、大人になって失敗を極端に恐れるようになった。だから、自ら挑戦しなくていい現状を生み出してきた。舞台でセンターになった時も、ミュージカルで準主役に抜擢した時も、彼氏ができた時も、失敗することが怖くて、ご飯が食べられなくなった。結果、私の中にいる神様は私に拒食症という病気を与えて、挑戦しなくていい現実を生み出した。私の願いは、届いていたんだ。
人の笑顔が見たい。反面、人のがっかりする顔を見る事が嫌いだった。人の期待に応えられない自分が嫌だった。ガッカリさせたくなかった。だから、死ぬほど頑張ってきた。が、頑張る事に疲れた。もう、私に期待せんといて!!!!!
期待されることへの恐怖感が募り、何にもしたくなくなった。何をしても、頑張らないといけない自分。頑張るから、余計に人が期待してくる。自分で期待される状況を生み出しておいて、逃げ出す。右手で作ったお城を、左手で壊してきた。いつもいつも。
どうせ壊してしまうなら、もう何も作りたくない。死にたい。終わりにして。私の人生。

本当に、あの頃は死にたかった。

夢と成功

中学校の頃、予習復習を終えた時だった。深夜0時をまわっていた。どういう訳かその時に変なことを書いたのを鮮明に覚えている。
「私には夢がありません。でも、だからこそワクワクするんです。なぜなら、夢を探す事が夢なんだ!!」
これ、おそらく潜在意識から出た言葉だったんだろうと思う。物心ついた頃からずっと、私は両親の背中を追って「中学校の数学の先生」になるのが当たり前だと思っていた。私の夢は、「親の夢」。だった。本当の私の夢は、その時、無かったんだ。

でも・・・ワクワクしていたんだって?

そう、今の時代、「夢がない」ってだけで自分の事をダメ人間だとか、つまらないヤツだとか、思い込んでしまった人たちが増えた。夢を持って生きることが素晴らしくて、そうじゃないと「成功」という言葉が手に入らないとでも思っているように見える。まあ、そうすれば人はとりあえず何かしら「頑張って」「努力」して国の経済の為に人生を使ってくれるわけだから、こういう教育方針になったのも致し方ない。

好きなことをしなきゃいけないの?

16歳の時、初めて行ったカウンセリングで「好きな事をしなさい。」と言われた。いきなりそんなこと言われても・・・私に分かるはずがない。私にとっての喜びは、親を喜ばす事だったのだから。
「もう親の為に生きるんじゃなくて、自分の為に生きなさい。」私は自分のやりたい事を見つけるために、東京へ出ることにした。東京なら、何かしら見つかる気がした。(※東京に出る理由はそれだけではありませんでしたが、ここでは省略します。)
そして出逢ったのが、ダンスだった。それから毎日、朝から晩まで踊っていた。ダンスほど、私が熱くなれるものはないって思ったし、自分にとって、ダンスは恋人だった。これもまた、「今、この瞬間」を感じられる芸術だったからだ。
しかし、ダンサーで食べて行けるのは一握りであると悟っていた。ましてや、この病気を抱えて叶うような、生ぬるいものじゃない。私は思い悩み、ある日、品川駅で出勤するサラリーマンを眺めていた。黒いビジネスバックを持ってせかせかと険しい顔でエスカレーターで上る人、降りる人。。。

「みんな、何の為に仕事してるんだろう。。。」

そんな事を考えて2時間くらい、ぼーっと突っ立っていた。それで思ったのは、自分の好きな事を仕事にするのも素晴らしいけど、自分の出来る事を仕事にするのも素晴らしいんじゃないかって。「好き」は、「好き」のままでいいんじゃないかって事だった。
私は音楽が好きだし、音楽の中で踊る事が好きだし、心が熱くなるのは変わらない。けど、だからって私はダンスをしないといけないの?踊って、私はダンスが好きだと、証明しないと、いけないの?
今まで色々なセミナーに出て、「好きならダンスしなよ!」そう言われてきたけど、これはハマりやすい落とし穴だった。本当に「好き」とは、出来なくても、叶わなくても、それでも「好き」だと、胸を張って言えること。なんじゃないかと思う。

だからね。
好きなことは、「好き」でいい。
たとえ、今は出来なくても、今は叶わなかったとしても。

もしも、出来ないから「好き」じゃない。叶わないから「好き」をやめる。それであれば、それ自体を「好き」じゃなくて、その「好き」にある「見返り」が本当に君が望んでいるものなのではなかろうか。

ところで私には幼馴染がいる

彼女は私と正反対の性格だった。中学の部活動も一緒で、私がキャプテン、彼女が副キャプテンをしていたんだが、動的な私に対し、静的な彼女。私は「責め」で攻撃するポジションだったけど、彼女は真逆の「受け」で相手がミスするまで粘るポジションだった。小学校から一緒にいたから、お互いの性格はよくわかってた。そんな彼女に成人式の時だったかな、会いに行ってこんな会話をしたのを覚えている。
幼馴染(K)「そろそろ、ちか落ち着いたら?波瀾万丈すぎるよ。」
私「落ち着いたら?って、うちらまだ若いよ!Kちゃんは、東京こんの?こんな田舎で何か夢あるん?」
K「いやぁ~、私はいいわ。ここで。東京とか疲れそうやし、私はここで幸せやし。」
菩薩でも降臨したのかと思った。彼女が、凄く謙虚で素敵に思えたけど・・・。
「私はこんなところで人生終わらせるなんて、まっぴらごめんだ!」そう思っていた。「こんな田舎でいては私の才能が発揮されない!」自分の才能が何であるか。知らなかったくせに、そんな事を思っていた。笑

実は私、恋愛メンタル雑魚なんです

ちょっと、今まで恥ずかしいから伏せてたんだけど、この章に必要なフレーズだから、もう、いっかっ(-_-;)て思って書きます。
私は、自分に自信がなくて、好きな人が出来ると、違う人と付き合う癖があった。(分かってくれる人いるかしら?) 小学校の頃からなんだけど、本命の人には絶対その素振りを見せなくって、カモフラージュとして違う男性を好きだと見せかけていた。「好きな人誰?」なんて友達から聞かれても、全く知らない人を指さしたりね・・・。自分でも、指さした後に「・・・誰?」って思って調べてましたもん(苦笑)今思うと、カモフラージュ的男性に申し訳なかった。
大人になってからは、自分の事を好きになってくれる人と付き合うのが一番安心できたので、そうしてたのですが、これが困った事に、どうしようもなく、自分勝手で、わがままで、すぐ嘘つくし、表面ばっかり繕う、中身のない「愛してる」を連呼する薄っぺらい男を愛してしまう、恋愛雑魚でした。
相手がダメ男であればあるほど、私が見捨ててはいけない気がしてくる。(母性本能があり過ぎるタイプ)「こんだけ人の気持ち考えられない人、私以外の女性が好きになってあげられるんだろうか・・・私が愛してあげないと、一人ぼっちになっちゃうんじゃないだろうか・・・」そんな風に思って離れられなかった。
友達のカウンセラーさんに、それ言ったら、「知佳ちゃんがいなくても大丈夫だから!!その人も30年生きて来てるんだから!死なないから!」って言われたよね。笑
結局、それに振り回されて泣くのはいつも私。向こうは私を傷つけたことなんて何とも思っちゃいないわけ。って、まー私が勝手に「いつか変わってくれるんじゃないか」ってあまーい期待をして傷ついたんだけどね!

しかし当時の私は「理想のカウンセラー」を追い求めていた

だから、恋愛メンタル雑魚な自分を「カウンセラーなのに・・・ダメカウンセラー」そう頭が罵声を浴びせてきた。その声に苦しんで、私はカウンセラーなんてもうやめたかった。そして、2年前。私は一度カウンセラーをやめたんだ。
でもね、自分が助けた人に助けられた。
「カウンセラーって、そんなに偉いの?カウンセラーだって人間でしょ?人間なんだから、失敗するよ!」
はっとしたよね。私、また完璧な理想を追い求めて苦しんでいたんだって。仕事も、恋愛も、悩むことない、バリバリやってるかっこいいカウンセラーを。

完璧じゃなくていい

人は、神様じゃないから、過ちを犯す。一時の感情に左右される。一時の感情に左右されるなと言うけど、でも、一秒一秒の感情ですら、私自身なんだ。快楽を求めて酔いしれる。それはむしろ、「今、この瞬間を」生きているということだ。
それが出来にくくなった現代だからこそ、心の病気が多発している。遊び盛りの子供の頃から「努力をさせ」て、「夢を掴め!」そんな事を聞かされて生きてきたから。そしてそれが世間一般的に見て「成功」だと教えられたのかもしれない。 確かに努力は素晴らしいけどね。
だから私は、これで良い。そう思った。(もちろん、成長してゆくよ)

失敗すら楽む

何故なら、失敗するっていう事は、まだまだ私には伸びしろがあるということ。 つまり、私の未来に成功が在る。ワクワクするじゃん!
それに失敗が出来るって言うのは、挑戦した人の特権なんだ♪最初から100パーセント成功出来るって分かっている事に挑戦することは挑戦とは言わない。

全ての人が成功者で在れる世界。100人いたら100人違う成功のカタチ

さてさて、ここでやっと私の「成功」についての見解を書くとする。(長かった・・・)
「成功の反対は、失敗じゃなくて、挑戦をしない事だと思う」といったよく聞くフレーズがあるが、これをどれくらい深く理解した人間がいるのだろうか。
それはつまり、「未来に成功を見て」、挑戦し続けることこそが成功だということではないかと考えている。
そして、たとえ今、挑戦する事が何もなかったとしても、それはそれで良いということだ。人間は、生きてりゃ何かしら壁にぶつかる。その時に、えいって挑戦すればい良いんだから。

人の人生を生きない事

成功とは、自分の人生を生きること。
だから、成功の法則なんてものは存在しないし、下手すれば、そんなものを信じて真似したら自分の人生の成功者から大きく外れる。ルールや法則性があったとしても、それは答えではない。いつも答えは自分の中にある。つまりそれは「好き」か「嫌い」かということ。
たとえ他人に嫌われようが、見下されようが、損しようが、自分の人生(行動・思考)に責任を持ち、自己正当化せず、楽しんで生き抜く勇気をもってほしい。
誰かを喜ばすために無理やり夢を作る必要もないし、見栄や体裁で何か大きな成功を残さなければいけないわけでもない。
私の幼馴染のように、周りの波がどうであれ、自分の波を大切にし、その中で起こる、自分の壁を、ひとつひとつ乗り越えて成長していく事なのではないか。

私は今、そう感じている。

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二極一対・光と影・表裏一体

正義が悪を生み出した

昨日の記事を読んで、Facebookで以下のようなコメントをいただきました。

一つの出来事をどの向きから見るによって善悪らしきものが決められているような気がする今日です。パリの出来事、色んな面から見てみると悪役と判断してしまう相手の正義について考えてしまいました。

おそらく、私が最後に書いた、「悪役もいたほうがいい」って言葉に反応してくださったのだと思います。

こんにちは。岸田知佳です。今日の記事は、ややこしいので、こんがらがるかもしれません。
実は、今年に入って温めていた私の考えなのですが、またいつかブログで書こうとは思っていました。
ちょうど、そろそろ公開できそう?な感じなので書きます。
私の考えですが、手っ取り早く書くと、
悪を滅ぼさなきゃいけない理由がないってこと。
そして、私が「悪役」と呼ぶのは、「私が嫌いな人」の事です。
つまり、悪役の反対の「正義」も「答」ではないということです。
私たち人間は、殆どの人が
「正しい」ことが好きで、
「正しく」生きたくて、
「間違い」を恐れ、
「答」を知りたがる。
が、しかし、
そもそも、「答」なんてものは、
「死がある事」以外はあやふやなパーセンテージで成り立っています。
問題は、
「正義」を「答」と勘違いした人は、
「悪」を「不正解」だと勘違いをしている。

こと。
だからこそ、自らの「正義」を脅かす、「悪」を恐れて相手を消そうとする。
「悪」は、悪なりの正義で平和に生きてるんだから、ほっときゃいいのに。です。
私は、正義感こそ、戦争の始まりじゃないかって思うわけです。
蓋をあければ、これを両者がやってるんだからね。そうでしょ?

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かの有名な「桃太郎」ですが、芥川龍之介の描いた「桃太郎」を読んだことあるでしょうか。
正義だと語り継がれている桃太郎を、極悪非道な何ともブラックに描いた名作です。
内容は、多分グーグル先生に聞いてみたら「あらすじ」だけでも読めると思います。

一部抜粋すると・・・
犬はただ一噛みに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も―猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣(ほしいまま)にした。”
鬼たちはおそるおそる、自分たちが人間に何か悪さをしたのかと尋ねる。すると桃太郎は、日本一の桃太郎が家来を召し抱えたため、何より鬼を征伐したいがために来たのだと答える。鬼たちは自分たちが征伐される理由がさっぱりわからないまま皆殺しにされてしまうのである。

この本を読んだ感想。
私の解釈で書きますが・・・
人間のエゴイズムが「正義」を作ったのだと思いました。

勝てば「正義」となり、負ければ「悪」とされる不条理な世。
勝つことを「正義」と思い込み、負けることは「悪」なのだと思い込まされた。
勝利に依存した人間たちは、結果だけにコミットし、目に見えた評価、点数、に踊らされた。
そして
自分が「正義」になるために、
「悪」をわざわざ生み出した
のだ。
つまり、悪を滅ぼしたところで、
正義だけの世になるのは一時で、
「正義」ってやつは、再び・・・
「正義」から「悪」を生み出すだろう。
と私は考えています。
以前、こんな事を言う男性と出逢いました。

「僕は、ある国へボランティアをしに行っているんだが、僕の行為は、無ければ無いなりに平和に暮らしている彼らの生活を壊しているんじゃないかって、悩んでいる。」

この人、凄いなと思いました。
心でも同じ問題が起きていると感じていたからです。

数年前からブームとなったポジティブ思考。
私は、カタチにだけ囚われたポジティブが、うつ病を増やしたと考えています。
なぜなら、ポジティブがネガティブを「悪」と見たからです。
ネガティブは、ネガティブなりに平和に生きていたのかもしれない。
そこへいきなりやってきたポジティブが、ネガティブを廃除しようとしてきた。
つまり、正義感が強い人ほど、

「悪」が許せない

だから、心の中で内部戦争が起こってしまったのです。

悪い部分を、消そうと必死になってる。
自分の「正義」を自分に押し付けてる。

追いやられたネガティブが、生きる場所を失ったのです。

「白」か「黒」か
「正義」か「悪」か
どちらかが「答」だと思ってるから、争いが起きる。
どちらか、ではない。
両者があって初めて「答」なんだと思う。
かりに「答」があるとすれば、
グレーの部分だろう。
つまりそれは、
「正義」と「悪」との間に、「答」が隠れているということです。
「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」だと言いますが、
「正義」の反対も・・・
「悪」じゃないのでしょう。