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相手への期待(コントロール) ( 6 ) 自分の人生に責任をもつ ( 5 )

人の期待は裏切っていい

記事:大丈夫。「良い子」をやめても、あなたはいい子だから
を、Facebookでシェアしてくださった方、本当にありがとうございました。
お蔭で、最高PV一万越え!!と、沢山の人に読んでいただけました。
書いたのは私ですが、想いを伝えてくださった方が、あの記事に命を吹き込んでくださったと、感謝しております。
本当に、いつもありがとうございます。
こんにちは。
心えがお代表 岸田知佳です。
引き続き、「信じる」という愛のカタチについてお話をします。
私が頻繁にいただく質問のひとつに、

「17歳で東京によく出してくれたね、親は何も言わなかったの?」

といった質問があります。

その時に親が何を言ったかどうかは忘れました。

でも、ただ一つ言えることは、あの時、
「自分の病気やけん、自分で絶対治してくる!」
という私(の言葉)を、親は信じてくれていました。
いいえ。『あの時』じゃなく、
あの時からずっと、今も。です。

過去の話

私は東京に着き、変わろうと決めた証として、すぐにピアスを開けた。
「優等生」をやっていて病気になったんだから、不良になったら治るんじゃないか?
そんな気がしていたのだ。

私は母にこう言った。
「ひとつ、絶対なお願いがある。私はこれから痛い目に合うかもしれない。最悪、私が死んだとしても、お母さんは悲しまないでほしいんよ。私は、幸せだったって、思ってほしい。「あの時に行かせなければ・・・」って、苦しまないでほしいんよ。そう思われることが、私は一番辛い。」

決して死にたいと思っていたわけではない。
むしろ、どこかワクワクしていた。
私にとっては冒険だった。

自分を変える冒険。

しかし、せっかく実家を離れたというのに、何をするにも「自分が愛し過ぎている家族」という存在が、私の邪魔をしてきた。
この時、「愛しているから殺す」の意味が理解できた。
事もあろうに、私は、「家族がいなければ、病気は治る」と、思っていたのだ。

※だからと言って、目に見える外的世界(三次元)にいる相手を本当に叩きのめす必要はない。無論、「ため息、睨む、暴力、脅す、殺す」というコミュニケーションは歪んだコミュニケーション(対人関係療法)である。

そして22歳の冬。

過干渉で、私を愛し過ぎた祖母が、天に召された。
私は実家に帰り、お葬式に出席。
そして、火葬場で祖母の肉体との別れの瞬間、
私は大声で泣いて叫んだ。

ごめんなさい!

ごめんなさい!

ごめんなさい!

自分でも訳が分からなかった。
何故、私は謝っているのか。
何を誤っているのか。
周りにいるお葬式に集まってくれた親戚も、さぞかし私が悪い事をしたと思ったろう。

母に聞いた。
「あの時、『ごめんなさい』って言ったんて、変だったよな。なんか、その言葉しか出んかった。」
でも、今ならわかる。
私は祖母の期待を裏切ったのだ。
私は、子供の頃から周りに期待されて育った。
とくに、祖母には。
「知佳ちゃんは、頭がいいなぁ」と褒められると、
頭がよくなくちゃいけない気がした。
裏切る事が怖くて、私は隠れて勉強をするようになった。
他にも、何かと褒められることが多かった。
褒められるごとに、私は鎖で縛られていくようだった。
これぞ本当の意味で褒め殺し。
長女として、「この家を継ぐから・・・」と期待をしていた。
小学校の頃から相続税の話を聞かされ、好きになる相手は次男じゃないとダメだと言い聞かせられていた。
お蔭で、今でも相手が次男かどうかをとりあえず聞く(笑)

期待を裏切れなかった。

その後、しばらく私は罪悪感で苦しんだ。

23になり、私は銀座でホステスとなった。

気まぐれで、気分屋のお客さんは、「明日行くよ~」なんて言っても、その日の気分で来なくなる。
「あと1時間で行くよ~」なんて言っても、店に来る途中に可愛い女の子に勧誘でもされればそっちへ行く。
人間の気分なんて瞬時に変わるモノなのだと、気付いた。
私はいい意味で人に期待をしなくなった。

するとどうだ。

裏切られることがなくなった

同伴ですっぽかされたとしても、自分の見る目が無かったのだと思うだけで、相手を責めなくなった。
期待をしていないから、傷つくこともない。

失敗をした。・・・次から気を付けよう。

というような学びにしかならなくなった。
お蔭で、人を責めるという無駄な時間を過ごす事が減り、人をよく見るようになった。

そう。。

「人が」「勝手に」期待をし、
思ったように動かない相手に対して、
勝手に」裏切られたと傷を負う。
それに気付き、
私にあった祖母への罪悪感は消えた。
私は、自分を生きただけ。
悪いことは、何一つしていないんだ。

真の「信じる」という行為には、「裏切り」は存在していない。

父も、母も、最初から私のことを信じてくれていた。
東京に出ると言った時も、
ダンサーになると言った時も、
銀座でホステスをすると言った時も、
私を止めなかった。
「知佳なら、どんな仕事をしても正当にやり抜くだろう」
と、言ってくれた。
私という人間そのものを信じてくれたから、今の私が出来上がっている。
16まで、自分(自我)が無かった私が、
約10年をかけて、
唯一無二の存在である「自分」が在る。
という状態になったのだ。
てなわけで、前回の記事で期待して読者登録してくださった方は、私に裏切られるので期待をしないようにしてください!笑
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自分に正直に(真っ直ぐ)生きる

「都合のいい女」「都合のいい友達」

「私と仕事、どっちが大切なのよ!」なんていうセリフをぶっこまれたら「仕事だよ!」といえる自分になりました。
その理由は2つ。
ひとつは私にとって仕事=お金ではなく、仕事=私の夢、人生になったということ。
二つは、私が自分の人生を大切にし出したということ。
「夢」は、私が生きている原動力であり、この宿命を果たすことが、この三次元に生きている醍醐味です。
私にとって、ディズニーランドで遊ぶことよりも、患者さん一人でも楽にしてあげられる方が幸せです。
この私の「夢(人生)」に対し、突然、目の前に現れた「誰かさん」とを天秤にかけ、「どっちが大事なのよ!」と言っているわけですから、比べようにならないのは明らかです。

「でも・・・運命の人かもしれない!」

大丈夫です。そんな事を言う人は運命の人ではありません。あなたの行く路を憚るのですから、むしろ「試練の人」でしょう。

「大切な友達なの!」

恋人であれ、友人であれ、自分の夢(人生)を応援してくれないような人を、大切に周りにとっておく必要があるでしょうか。

その人はきっと、今までアナタにとても親切だったかもしれません。
でも振り返って思い出してみてください。その人は、アナタが悩んでいる時に心から寄り添ってくれていましたか?
もしイエスなら、あなたの生き方を尊重するはずです。

「都合のいい女」「都合のいい友達」になる現実を引き寄せていた過去

かつての私は、人に誘われたら断るのが凄く悪い気がして、睡眠時間を削って無理矢理調整したりしていました。
彼氏とデートする場合でも、相手の都合が良い場所や時間を選んで、私は無理をしていました。
子供の頃から人が喜ぶ顔を見る事が好きだったから、それを見て満足していたんだけど、、、

でもね、これをやっているとどうなるか・・・。

だんだん彼氏はそれが当たり前になって来て、私のことを大切にしなくなった。
友達もそう。私がどうしても外せない用事が出来た時に、いざ誘いを断るとぷーっと膨れた。

結局、私は「都合のいい女」「都合のいい友達」になっていた。

私が自分を出したら、誰を大切にすればいいか分かりました。

私は自分の夢や体を大切にし、そこに時間やお金を使った。
無理して遊びに行ったり、お酒を飲むことをやめた。
そうしたら、「都合のいい女」を探していた男達は、私から離れて行き、
「都合のいい友達」を探していた友達は、私から離れて行った。
私が、彼らや彼女たちの『物』にならないと分かったから、彼らは去って行ったってこと。
去って行った彼らは、自分の物であるうちは大切にします。その人たちは、私にだけそういう態度ではないはず。
人間は、「何か一つにだけ出る」という事はないんです。
人間関係(友達・恋愛・親子)、食べ物、仕事、お金、どんな面にだって、転化します。
私に出ているということは、他の友達にも出ています。

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でね、その人たちは探しているの。
我慢して自分の為に生きてくれる人を。
あなたは餌食になっちゃいけない。
その人がどんなに素晴らしくて、かっこよくて、素敵だと憧れるような人でも、
その人の為に生きちゃいけない。
間違っても、彼らが去っていった事で「自分が悪かったんだ」などと自分を責めたり、「やっぱりあの時に言う事を聞いておけば」などと後悔をする無駄な時間を生きないように。
自分の為に生きてください。
自分の為に人に嫌われる勇気をもってください。
大丈夫。嫌われたって死にません。
むしろ、そんな相手に好かれることの方が危機感を感じます。
その人は、今後もあなたがノーと言うまでずっとあなたの人生を邪魔してくるでしょうから。
結果、あなたは自分自身を嫌いになる。
生まれた時から24時間、一緒にいる相手が自分です。
そんな自分に嫌われてみなさいよ、それこそ、生き地獄ですよ。

私が自分を大切にしたら、私を人として大切にしてくれる人だけが周りに残りました

自分を出せば、本当に自分に合った、自分を大切にしてくれる友達や彼氏が出来る。っていうか、「残る」んです。
よく、自分を愛していない人間が他人から愛されるはずがない。こんな言葉を聞くことがありますが、それはきっと、こういう事もあるのだと思います。
我慢して、自分を偽って生きたら、本当なら出逢っていたであろう大切な人を失います。
それはつまり、誰からも愛されない人なるということです。
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コミュニケーション(対人関係) ( 10 )

最悪なコミュニケーション

インターネット上でのコミュニケーションが発達してきた今、
リアルでのコミュニケーションが苦手な人が増えてきています。
みなさん、こんにちは!心理カウンセラー岸田知佳です。
貴方は、コミュニケーション上手ですか?
今日の記事は、以前にも書いたことがある記事を、
少し成長した一年後の私からみた観点で、もう一度書き改めたものです。
私たちの悩みのほとんど、9割は、
対人関係にあると言われています。
私のカウンセリングにいらしてくださっている患者さんも、
最初は病気の話から入りますが、必ずといって良いほど、
何回か目で対人関係の相談を持ってきてくれます^^
私が対人関係療法を学んで出逢った言葉に、
「わたしたちは自分と折り合いをつけられる程度でしか
他人と折り合いをつけられない。」

という有名な言葉があります。
これはフランスの作家、ポール・ヴァレリーという方の言葉です。
これを、医学者・精神科医である「中井 久夫」教授はこう訳しています。

「人は他者と意思の伝達がはかれる限りにおいてしか、
自分自身とも通じ合うことができない。
それは他者と意思の伝達をはかる時と同じ手段でしか
自らとも通じ得ないということである」

来月から配信していくメルマガにも書きましたが、
私は閉鎖病棟に入院して気付いたことの一つに、
「自分と向き合うこと」「自分と付き合っていくこと」ということは、
「他人と向き合うこと」であり、「他人と上手に付き合っていくこと」
に繋がっているんだなぁ、ということでした。
人は鏡といいますように、
私たちは、他人に対する感情を分析することで、自分を知ることができます。
また、他人がいるから、私たちは自己認識ができるのです。
先日も、他人と比べるということに関しての記事を書きましたが、
決して比べること事態が悪いことではないのです。
比べて、
「そこに意味づけをしている」
ということを認識していないこと
そして、
「その意味づけをしているのが自分である」
という責任を背負っていないことが、
自分の首を絞めているのです。
さて、遅くなりました。
このままズルズル書くと本題に入れないので、無理やりですが…
今日のタイトル「最悪なコミュニケーション」!
一体どんなコミュニケーションだと思いますか?
答えをじらしても仕方ないので、正解を書いちゃいますが、
正解は「再交渉の放棄」です。
話し合いを放棄されるということです。
「沈黙」「行き詰まり」とも言います。
これがコミュニケーション学においては、
最悪なコミュニケーション段階だとされています。
まだ殴り合いだとか、喧嘩の方がマシ。
なぜなら、相手に「怒り」の感情を伝えているという点で、
まだコミュニケーションをとっているからです。
もちろん、こういった歪んだコミュニケーションは正さなければいけませんが、
コミュニケーションの放棄、すなわち「沈黙」「行き詰まり」よりは
まだ改善の余地があるのです。
言わない、伝えない、我慢する、飲みこむ・・・
これらは、お互いにとってマイナスでしかありません。
あなたの人生に、より良い人間関係を築いていきたいと思うなら、
自分の気持ちを真っ直ぐに、勇気を持って伝える事を心がけていきましょう!
しかし、コミュニケーションは自分ひとりで成り立つものではありません。
自分がどれだけ相手にコミュニケーションを取ろうと頑張っても、
相手にその気がなければ、残念ながらやはり、なす術がないのです。
他人は変えられませんからね。
ここで出てくるのが、記事の冒頭で書いた
「わたしたちは自分と折り合いをつけられる程度でしか、他人と折り合いをつけられない 」
です!
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つまり、

こうなったら「自分自身の中にある相手」との関係のあり方、

ポジショニングの問題ということです。

自分の中の感情を、上手に成仏させねば・・・ヽ(;´ω`)ノ

ってなわけで、次回は対人関係療法「悲哀のプロセス」をご紹介します。

実は上手な悲しみ方というのがあって、

それを間違えると心の病気になったりだとかしてしまうのです。

これを知っておけば、あなたも大切な人を失った時、

ネガティブな感情が来るのも怖くない?かもです。

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気付く力と見極める力・行動力と決断力

知・覚・動・考

世の中で結果を出せない人間は、

知る→覚える→考える→動く

の順番で行動する。

しかし、結果を出す人間というのは、

知る→覚える→動く→考える

という順番で行動をする。

こんにちは!心理カウンセラー岸田知佳です。

さて、今日のタイトル。

知・覚・動・考

これを、何て呼ぶか知ってる?

答え

知・覚・動・考
とも・かく・うご・こう

とにかく動け

そういう事です。

頭であれこれ考えていても状況は殆ど変りません。

あなたも、これまでに何度か体験があるかもしれません。

動けば、必ず何かしらの変化が得られます。

状況は、動くことで変えられる。

という事をしっかりと頭に叩き込んでおきましょう。

また、その変化に気付くアンテナを常に張っておく事も大切だと思っています。

そして、考える対象は「覚えたこと」ではなく、「工夫」

予定通りに進まないのが人生です。

「こうなんだから、ああなるだろう。」

そんな夢物語にふけ、不安になる事に時間を費やすのは惜しい。

どうせ考えるならば、

『何をどうすれば・・・』

に焦点を当てたほうが賢いかもしれません。

23a
ところで、この言葉は私が今思いついた言葉ではなくってですね、

GACKTさんが、ある実業家の人に教わった言葉らしく、

今では色々なところで耳にするようになりました。

知っている人もいたかもしれませんね^^

知る・覚える

は「きっかけ」に過ぎず、

動く・考える(工夫をする)

の繰り返しで、この繰り返しのサイクルが早ければ早いほど結果が出てきますし、

成長のスピードも早くなってくるのです。

逆に言わせてみれば、

成長のスピードが遅い人は、動いていないのです。

ちなみに、NLPで言わせてみれば、

考えて動かない人というのは、

動かない理由を自ら考え出している・・・

つまり、ダメになる理由を探しているんです。

そう、

人間って本当は「得ること」より「失う事の方」が難しいから。笑

人って臆病ですよね~。

数年前から「捨てる力」=(断捨離)がクローズアップされましたが、

得ることばかりに夢中になって、忘れられた「失う事の大切さ」、

そこから知る「『有る』事への感謝の気持ち」

を、思い出させてくれるものでした。

だからこそ、

目の前の人、目の前の時間、

は、かけがえのないものなのです。

失ってから気付く。

そうならない為にね。

また話が脱線しそうなので、今日はこの辺で!

明日のご訪問もお待ちしております^^

岸田知佳 カウンセリングルーム

受付けはコチラのフォームからどうぞ。

岸田知佳 カウンセリング ご感想

2013年12月09日 東京都(同志) ★歳 女性
カウンセリング、もう本業でやっていけると思います。今、カウンセリングに入ったら華さんの顔つきが変わったので、不思議だなって思って。これが、本当の華さんなんですね。

2013年11月16日 埼玉県 25歳 女性
私はカウンセリングが終わった後に、岸田さんのおっしゃってた事を手帳に書き出すのですが、『幸せ』という漢字が書けなくてびっくりしました。漢字を忘れる程『幸せ』って書いてなかったんだなと思いました。

2013年11月26日 東京都 29歳 女性
私は何か架空のものを追いかけていたんだと気が付きました。ちょっと面白くて、笑えました(笑)

その他、カウンセリングの感想をもっと読みたい方はこちら

お知らせ

カウンセリングルームの場所が中央区に変わりました。
詳しい場所については、お振込み完了後にお伝え致しております。

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人間力

金を出せないなら知恵を出せ。金を使えないから気を遣え。

人間というのは、ピンチに追いやられた時にこそ、本当の実力がわかる。
かつて、私の尊敬したダンスの先生が言っていた。
「元気がある時に良いパフォーマンスが出来るのは当たり前。
疲れた時にこそ、本当の実力が試される。」
こんにちは。心理カウンセラー岸田知佳です。
私は自分の出来る限り、全力を尽くして人と向き合っているつもりです。
それでも相手に届かない事もあります。
何故なら、毎度口うるさくいっていますが、
コミュニケーションは受け取る側が主導権を握っているからです。
だから、精一杯やって、それで無理だったものは、それで良いと思っています。
人の心は、取り出して私がどうこう出来るものではありません。
潔さは大事。ダラダラ続けるのは嫌いです。
時間は有限。何をするにしても、期間を決めることにしています。
※他人にではなく、自分の中でのタイムリミット(見切り)です。

人は自分に優しく出来ない時、他人を癒す事は容易くない

人は傷ついた時、凶器になります。
周りが見えなくなって、
八つ当たりをしたり、責任転換をしてしまうかもしれません。
過去の私がそうでした。
自分が惨めで情けなくて、自分に向けた刃は、他人にも向くのです。
心理学をいくら学んだところで、
感じるものを変えることなんて、誰にも出来ません。
頭では理解していても、心は自由に無意識で動くものだからです。
ただ、それに対して自分がどうすることが最善なのか、知っておくことは出来ます。
そして、私はそうしています。
辛い時に、辛いと言える人が周りにいる事を理解すること。
自分の弱さを、さらけ出す勇気をもつこと。
「人間なんだもの。」と、自分の人間臭さを認め、完璧を求めないこと。
傷を負った出来事であれ、意味がある事に気付き、そこに感謝をすること

失ったものを見るのではなく、残されたものの大切さにフォーカスし、
今の自分に出来る事からリラックスして、歩き出しましょう。

「無い」にフォーカスすればするほど「無い」が寄ってきます

確かに失ったものはあることでしょう。
しかし、それは全てでしょうか?
目が見えます。足があって歩けます。口があって、ご飯が食べられます。
自分が恵まれていることに、気付いていますか?
「無い」にフォーカスし、心まで無くしてしまっていませんか?

私は、1パーセントの可能性を見捨てません

「無い」になるまで、私は見捨てません。
1でも「有る」んです。
「有る」ものは必ず増やすことが出来ます。
「無い」にフォーカスする人間は「有る」ものさえ「無い」にしてしまいます。
こんな言葉があります。

金を出せないなら知恵を出せ。
金を使えないから気を遣え。

必ず、「何か」は残っているはずです。

そしてまた、
神様は何かを奪う時、いつも何かを与えているのですよ。
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人間力

誤解は、必ずしも解かなければいけないわけでもない。

昨日、ある人に「理解してほしいとか思わないの?」と聞かれました。
以前の私なら、相手へ理解を求めていたでしょうが、対人関係療法を学んでからは、どうやらその辺が楽になったように思えます。
(対人関係療法では誤解をされてはいけない相手と、誤解されても良い相手を別けて考えます。)
「誤解をされたくない」「理解されたい」
といった欲求は、自分の心に不安の影を落とし、良くない妄想にかき乱されたりすると思います。
そんなアナタにピッタリな話があるんです。良かったら、読んでみて下さい。
ある日、松蔭寺の門前に棲んでいた財産家の信者の娘さんが、ふとしたことで妊娠してしまいました。信仰のあつい父からは、だれの子か、だれの子かとはげしく聞きただされましたが、はずかしくていえません。父があまり責めるので、おそろしくなり「白隠さんのこどもです」と答えて、父の怒りからのがれようとしました。つね日ごろ、禅師の大崇拝者であった父は、それを聞いて、だまってしまいました。父はその後、一言も娘にものをいいません。
やがて月みちてこどもが生まれるやいなや、こどもを娘の胸から引きちぎり、松蔭寺を訪ね、泣きさけぶこどもを禅師のまえに投げだして、「お前は、えらい坊さんだ、とおもっていたが、とんでもない坊主だ。人の娘にこどもを産ますとは、なんたる生グサ坊主だ。さあこの子をひき取ってくれ。あきれた奴だ・・・・・・」とあらゆる悪口をいって大声でののしってかえってゆきました。
禅師は、「ああ、そうだったのか」と、泣きわめくこどもを抱えて飴で赤子を育てはじめました。
それで、禅師の信用はすっかりなくなり、尊敬する人もいなくなり、いままで大勢いた松蔭寺の弟子たちも、禅師をすててたち去ってゆきました。禅師はいつもとかわらず、勤めをおこない、赤子を抱いて、村々を托鉢して歩き、こどもを愛し育ててゆきます。禅師の姿を見る人々のなかには、罵詈や、嘲笑をあびせかけ、石をなげたり、塩をまいたりする人もおりました。
ある雪のふる日のことでした。いつものように禅師は赤子をだいて、軒々を托鉢してあるいていました。その禅師のうしろ姿を窓からのぞいた赤子の母親は、母の情がおさえがたくもこみあげて、おのれの心の責苦に耐えかねて、ワーッと泣きだして父のまえに、
「あの子は白隠さんのこどもではないのです・・・・・・」と本当のことをうち明けました。父はビックリして、いそいで禅師のところに走ってゆき、身の置きどころもないほどはじて、謝りました。
禅師は、ただ一言「ああ、そうか・・・この子にも父があったのか」といってこどもを父に手わたしました。ただ、それだけでした。このことがあってから、禅師を慕う人がますます増え、以前よりも多くの人が松蔭寺に集まってきました。禅師は何も言わず、また何ごともなかったように、平常の通りの勤めをはたしていたそうです。
04b
自分の誤解を解く事よりも、今、自分がやった方がいいと思う事を選択した禅師。
これは勝手な私の想像ですが、きっと、起きた現状が、どんな理不尽なことであれ、神から与えられたものであるからして、受け入れたのだと思います。「誤解をされる」も、神から与えられたこと。その「誤解をされる」ことで得た体験が、「赤子を育てる」という体験、そして「赤子を授かった」現状が在る。ただ、それだけのことなのではないでしょうか。
何をあたふた誤解を解く必要がありましょうか。誤解は、常にされている。し、自分だって誤解をしているかもしれません。人は完全に人を理解することは出来ないのです。相手を完全に理解することよりも、大切なことは相手をどう感じているか、だと思っています。
現状よりも、感情。現状に感情が振り乱されてはいけません。
そして、今の自分に出来る事を、ただ、ただ、やる。それで良いでしょう。
質問>>
このエピソードから、あなたはどんなメッセージを受け取りましたか?
何を感じ、何を学びとる事が出来たのでしょうか。

「白隠禅師」について

 
「白隠禅師」は、貞亨二年(1685年)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市 原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。 幼い頃から聡明で、六才の時お寺にお参りをして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話を語って聞かせたといいます。十五才の時、松陰寺で出家し、慧鶴(えかく)となずけられました。十九才の時諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、「臨済禅中興の祖」と仰がれるようになりました。亨保二年(1717年)松陰寺に入り住持となり、その翌年「白隠」と号しました。「白隠」の名は全国に知れ渡り、「駿河にはすぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われました。「白隠禅師」は又禅画にも堪能で、釈迦・達摩・観音などを好んで描きました。 それらの禅画は松陰寺などに多数現存しています。明和五年(1768年)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より「神機独妙禅師」の諡号を、明治天皇より「正宗国師」の諡号を送られています。

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トップに立つ人間

ぶりっ子って悪なのか?八方美人は悪なのか?

トップにたつ人間ほど態度を変えない。
横暴な人は誰に対しても横暴であり、フレンドリーな人は誰に対してもフレンドリーなのだ。

こんにちは、心理カウンセラー岸田知佳です。
※今日の記事は「差別」ではなく「区別」の中でのお話だという事を前提にお読みください。
人によって態度を変える人や、好きな人の前ではニャンニャンなっちゃう人、
いわゆる『ぶりっ子』だとかを嫌う人がいますが、ちょっと考えてみた。
全ての人に同じように接する事が本当に良いことなのか?
逆にそういうのを『八方美人』だとか言って嫌う人もいらっしゃると思います。

『ぶりっ子』VS『八方美人』

で、結局どっちがいいのよ!?って考えていましたが、
相手によって態度を変えるのは、相手をそれだけ意識をし、もてなしているという事なのではないのか、、と。
なぜ私がそう感じたのかというと。
銀座のクラブで働いていて、お客様を見ていた時、
トップに立つお客様ほど、他人に対して平等な扱いをしている
ということに気付いたからです。

通常、上司や先輩には敬語、部下や後輩に対しては命令口調など、私達は態度を変えているものです。
言ってしまえば、「態度を変えない」という行為は、大して私達の事を意識していないから出来てしまう行為であり、周りとの関係が、自分に大した影響がないことを知っているのです。
他人に対して自分のポジションを気に止めずともいられるのです。
それだけの「余裕」があるという事なのではないかと、感じたのです。

こういった事から、態度を変えなくても生きていける人というのは、
トップだからなせる技なのでは?

そんなことを思いました。

最後に注意書きをしておきます

「態度を変えてもいい」というのは、決して掃除のおばちゃんに横暴な態度を取ったり、
後輩を虐めていいという意味ではありませんよ。
そこは人間性の問題になります。
自分がトップに立った時に、その態度が軸となり統一されるのではないかと思います。
そうなってくると、今、上司に対してとっている行為というのが「媚び」という見解になってしまいます。
常に、部下や後輩に対しては自分がトップになったらこう在りたいと願う姿で接すると良いかもしれませんね。
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モノの見方、捉え方 ( 5 )

360度の捉え方

≪物事の捉え方や感じ方は、人それぞれです≫
なんてよく耳にするフレーズですが、
「そうそう」と言いながらも実行出来ていない人が殆どかもしれません。
おはようございます。岸田知佳です。

つまりこれは物事に良いも悪いもないということ。
何が良いか悪いかっていうのは、自分にとって良いか悪いかってこと。
その物自体には良いも悪いもないってこと。

最初は右から見て、なるほど。
次に左から見て、あーなるほどね。
上から見たら、へーそうなんだ。
じゃあ下から見たらどうだろうか・・・って

もっともっと360度っていう無限の面がある。

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物事に不快を感じている場合、
もちろん無理して視野に入れる必要もないので、遠ざけるというのもひとつですが、
あまりにも「不快だから、はいさよなら~」じゃ、自分の生きる範囲が狭くなります。
また、現実にはそれが回避出来ない場合や、
無理してでも生活の範囲に入れていかなければいけないという事も少なくはありません。

例えばアナタが重要な書類を郵送しなければいけないとする

ポストの投入口が5×25だとして、送りたい茶封筒が20×30×3ならば、大抵の人は20×3を無意識に投入口へ持って行くでしょう。
こんな風に私達は目に見えるものなら無意識に360度回転させて考える事が出来ています。
しかし目に見えない物事言葉体感覚などの表象システム(サブモダリティ)に関しては、ダイレクトに感じている感情をそのもの自体だと捉えがちです。
実は目に見えないものほど、曖昧なものはないのに。です。
茶封筒では、色を変えられませんが、目に見えない言葉や体感覚などの従属要素は自分の都合のいいように変える事が出来ます。
(NLP:サブモダリティの変換
そうする事で私たちはもっと生きやすくなるし、広く物事を捉える視点があれば、可能性も広がることでしょう。
08
全ての事柄には、いくつものケース(捉え方・背景)があると思います。
だから私は人を見る時、表面的な色眼鏡で見ることが好きではありません。
どんなに偉い人であろうと、どんな犯罪者であろうと、その人の実態はそこにはないと思っています。
偉くなるも、犯罪者になるも、結果であり、症状だと思っているからです。
私は見えるものには興味がありません。
もっと奥にあるその人のもつ価値観に興味があるんです。
ワーク>>
あなたが嫌だなーと感じている出来ごとを、他に3つの捉え方が出来るとすれば、どんな捉え方が出来るでしょうか?
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社会への貢献・公共性 ( 4 )

会社を経営する立場として、何を大事にしているか~社会貢献とは~

「僕の会社の目的は、少なくとも自分の社員が笑顔であることだと思っているんだよ。」
こんにちは!心理カウンセラー岸田知佳です。

「社員が幸せなら、そこに必ず笑顔がある。
社員に笑顔がある時にはモチベーションも上がり、会社も上手くいっている。
僕は社員の笑顔を指標としている。」


と話してくれたのは、遠方からはるばる私とお話をしに銀座へいらしてくださった社長さん。

とても素敵なお話を聞かせていただきましたので、是非ブログでもシェアしたいとお願いしたところ、了承していただけたので、今日の記事とさせていただきます。

A社長、ありがとうございました。

会社を経営する立場として、何を大事にしているか

「社員が笑顔ならば、その社員の家族も笑顔になれる。
そうすると、社会全体の笑顔が増える。
笑顔であるってことは、幸せなんだよね。
つまり、笑顔が増えるっていうことは幸せな人が増えるという事。
それが、間接的に社会貢献をしているっていうことなんじゃないか。
だから僕は、自分の会社の社員が笑顔かどうかを大事に見ているんだよ。」
すごいこれ、頷けました!!
といいますのは、私が自分の働くお店を選ぶ基準がずっとこれだったからです。

銀座で働こうと思ってお店を探していた時の事です。

銀座を歩いていてあるクラブの専務にスカウトを受けました。
悩んでいたら「体入出来るから今から1日だけでも働いてみない?給料出すし。」と言われ、
(※通常、クラブでは体入制度はありません。例外で体験させてくれる事もあります。)
1日体験させてもらったのですが、
ま~・・・スタッフの笑顔がないことったらありゃしませんで(^▽^;)
体験後、「どうでしたか?宜しければ、本入店しませんか?」と聞かれましたが、
笑顔がなかったを理由に断りました。
笑顔の多い職場ってのは、モチベーションがとても高いし、
イキイキとしているのでお客さまにもそういった波動が自然と伝わります。
真にモチベーションを上げるのは、表に出ている時よりも裏での力が土台となると思っています。
『本物は地味。隠れているもの』
繕った時間で生きるより、本物で生きていた方が自分の力を発揮できます
私もこのブログを通して「笑顔」についてはかなり書いていました。
同じように笑顔を大切にしているという社長さんに出逢えて、とても嬉しかったです。
質問>>あなたの周りに、どれくらい笑顔がありますか?
カテゴリー
根気・我慢・地道な努力 ( 5 )

努力をすることで得られるもの

「ちかさんは自分に自信があるからそんなこと言えるんですよー」
とか言って「自信がない」を理由に「出来ない」と言う人。
ちっちっちっ
私だって自信なんか全くないからね。
ないから頑張ってるんだよ!!!
自信は後からついてくるもんだ。
という内容をFacebookに書いていました。

こんにちは、心理カウンセラー岸田知佳です。

これに

自信は、はじめからあるものじゃないですよね、ほんとそれは思います!僕も結果を出してから自信を持つことが出来るようになりました。昔は結構ネガティブ人間だったので(笑)結果というよりも自分がこんだけ頑張れる人間だったんだなって思えて自信に繋がったのかもしれないですw

と、浅倉社長からコメントいただきました。

実は同じようなコメントをこのブログで頂いていました。
その記事はこちら⇒「売上の高い人~生きているうちにわかるとも限らない~
この記事では、

今、自分のやっている事が、例え今、評価されなかったとしても、
自分の正しいと思う事を信じて「努力」する事、
何より「信じて努力」するという事により、自分の「自信」に実を結んでいるのではないでしょうか?

と、私が書いていた事に対し、
福助さんが

そうなんだよ努力ってのは自信をつけることなんだよ!なにかひとつでも自信もってる人はやっぱ違うよ。

とコメントしてくださっていました。

浅倉社長も、福助さんも、「頑張ること」や「努力すること」が「自信」を与えてくれるという体験をされているのかな、と思うと、なんだかとても嬉しい気持ちになりました。
私が感じるのは、皆、表面的な資格だとか目に見えるもので自信を得ようとし過ぎだと言う事。

「成功したから自信がある」
「●●円稼ぐから自信がある」
「他人に評価されているから自信がある」
「痩せているから自信がある」

これって、到達するまで自信がもてないって事なら、「~でなければ私はダメなんだ」という、強迫概念からなので、むしろ自己否定という自信をなくす方向へいってしまうんですよね。

浅倉社長の『自分がこんだけ頑張れる人間だったんだなって思えて自信に繋がった』というコメントから思ったこと。

よく「頑張らなくても良いよ」っていうのもあるけど、あれは頑張り過ぎてブレーキが壊れてしまった人の為にある言葉なので、ずっとずっと頑張らないでいると、どんどん自信喪失してしまいます。

そして福助さんのコメント『なにかひとつでも自信もってる人はやっぱ違うよ』から思ったこと。

最近「好きな事がない(分からない)から頑張れない」という人が増えてきているといいます。
ならば、何でもいいから自分の目の前の事頑張ってみればいいと思います。
結果としてそれが自信に繋がるのなら、儲けもんだとは思いませんか。

最後に、昔、ママが教えてくれた言葉をシェアさせていただきたいと思います。

「四知」(天知る、地知る、我知る、人知る)
あらすじは以下
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ある夜、役人にしてもらったお礼にわいろを届けた男がいました。
「まあまあ夜遅く誰も知る人もいませんから」
とお金を出そうとする男に楊震(ようしん)という人は言いました。
「誰も知るものがいないなどとんでもない。天が知っている。地が知っている。私が知っているし、君もが知っているではないか」
とわいろを断ったそうです。
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これは「悪い事はするな」という意味でのものですが、「良い行い」も同じ事。
つまり、人に見られずとも「努力」や「頑張り」は、天が知っている。地が知っている。私が知っている。
(君はないけど・・・^^;)

そう。
貴方が頑張っていることを、誰よりも知っているのは、あなた自身なのではないですか?
もし怠けているのなら、それを知っているのも、あなた自信。

11a
自信というものは、自分が自分を認めてはじめてつくものだと、私は感じています。
だからこそ、自分を褒められる自分であろう。
質問>>あなたの目の前にある、頑張れそうなことって何だと思いますか??