昨日、雨の中スーパーから帰っていたら、
4,5歳くらいの小さな子供が可愛い長靴を履いて、
水たまりに・・・
ばしゃん!!!
その子の洋服に泥水がかかっちゃって、泣いちゃいました。
4,5歳くらいの小さな子供が可愛い長靴を履いて、
水たまりに・・・
ばしゃん!!!
その子の洋服に泥水がかかっちゃって、泣いちゃいました。
あ~これこれ。こういう体験が大事なのよ~。
こんにちは!心理カウンセラー岸田知佳です。
誰だって、トラブルは出来ることなら避けたいものですが、
私の知り合いに、こんなことをいう社長さんがいらっしゃいました。
誰だって、トラブルは出来ることなら避けたいものですが、
私の知り合いに、こんなことをいう社長さんがいらっしゃいました。
トラブルには自ら突っ込んで言った。なんでかっていうと、
何かを学びたいと思った時、
やっぱり、ただ単に学んだ時と、
トラブルがあって、必死に学んだ時とでは、
深さが違うと感じたから。
何かを学びたいと思った時、
やっぱり、ただ単に学んだ時と、
トラブルがあって、必死に学んだ時とでは、
深さが違うと感じたから。
そもそも、トラブルっていうのは何故起きるのか。
それは「知らない事があるから」なんじゃないかと思うんです。
文頭の子供の例で書きますと、
それは「知らない事があるから」なんじゃないかと思うんです。
文頭の子供の例で書きますと、
「大きな水たまりがある」→「飛び込むと水が服にはねる」→「避けよう」
みたいに、知って入ればトラブルを回避する選択をすることができました。

人は自分の知る許容範囲の中だけで生きていれば、
そうトラブルには巻き込まれないものです。
そうトラブルには巻き込まれないものです。
とはいえ、私たちは沢山の人との関わりの中で生きていますから、
自分だけが「知っていれば」トラブルに無縁なのかといいますと、
そうではありませんね。
他人からもたらされるトラブルもあるはずです。
自分だけが「知っていれば」トラブルに無縁なのかといいますと、
そうではありませんね。
他人からもたらされるトラブルもあるはずです。
しかし、それも「知って」いれば、対処法が身に付いていますので、
そう何日もトラブルに頭を抱えることもないでしょう。
そう何日もトラブルに頭を抱えることもないでしょう。
教養とは、自分自身を知る事でもある
以前、とあるお客様の接待でお食事に行っていた時のこと。
そこで出てきた生牡蠣を見て、
「私は生牡蠣に3回もあたった事があるんです。だからもう食べるの怖くって。」
といって、残されていました。
ある意味、これも「教養」なわけですよね。
そこで出てきた生牡蠣を見て、
「私は生牡蠣に3回もあたった事があるんです。だからもう食べるの怖くって。」
といって、残されていました。
ある意味、これも「教養」なわけですよね。
タイトルには、「乗り越えるプロセス」と書きましたが、
その手前の段階で、
トラブルになる可能性を回避する「選択が出来る」ことも
「教養」の賜物なのだと思います。
その手前の段階で、
トラブルになる可能性を回避する「選択が出来る」ことも
「教養」の賜物なのだと思います。
逆に、生牡蠣に当たった体験を経験しているからこそ、
当たった時の対処法を知っていて、
安心して召し上がられる方もいらっしゃると思います。
当たった時の対処法を知っていて、
安心して召し上がられる方もいらっしゃると思います。
これを思うと、教養というのは、例え同じ教養がなされたとしても、
その人その人の価値観によって行動(=対処法)が変わってくる
ということも分かりますね。
その人その人の価値観によって行動(=対処法)が変わってくる
ということも分かりますね。
そこで繋がったのが、金八先生の言葉。
事故が起こったときに自己を発見する。
トラブルが自我、自己を見つけさせる。
以前にも金を出せないなら知恵を出せ。金を使えないから気を遣え。の記事で
「人間というのは、ピンチに追いやられた時にこそ、本当の実力がわかる。」
と書きましたが、
事故(トラブル)が起こった時にこそ、今の自分の実力を発見することが出来ます。
そして、トラブルを乗り越える力(自分自身の対処法)を知るきっかけとなるのでしょう。
「人間というのは、ピンチに追いやられた時にこそ、本当の実力がわかる。」
と書きましたが、
事故(トラブル)が起こった時にこそ、今の自分の実力を発見することが出来ます。
そして、トラブルを乗り越える力(自分自身の対処法)を知るきっかけとなるのでしょう。