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◆自尊心を育てる(自己志向性) ( 5 )

プライドを捨て自尊心をあげる~人を悪者に出来ない自尊心を下げる生き方~

こんばんは。岸田です。
こないだ、私は他人に対して常にニュートラルでいたい。という記事を書きました。
(こちらです―人を「嫌い」にまでもっていかないニュートラルな姿勢~平・等~―)
その時に私の心に「平等」の考えが根付いている事を少し書き、「それがいきすぎて苦しむ事があった」とちょこっと書いていました。
今日はそのことを書きたいと思います。

※今日の記事は先に「人を「嫌い」にまでもっていかないニュートラルな姿勢~平・等~」を読んでから読み進めてください。

他人を悪者に出来ない自尊心を下げる生き方

私は、くっそ真面目にその小学校からの教えを守っていたので、
イジメられても、喧嘩をしても、明らかに相手が悪い時でも、
「もしかしたら、私にも悪いとこがあったのかもしれない。彼女がそういう事をするのは、背景に何かがあって、彼女も傷ついているんだ!!」
そう思っていたんです。汗(いや、正確には思うように頑張っていた)
だから、イジメられても我慢していたし、
その人に対して「怒り」の感情を持つことはいけない事だと思っていました
だけど、何かされたらもちろん嫌だし、私も傷つくわけです。
そうすると、心はどうなるのか・・・

「あの人の事を悪く思っている自分ってなんて性格が悪いんだ!!」

そして自分のなかで
「私は性格が悪い」
と思い込み、また、虐められたら
「私は性格が悪いからイジメられて当然だ」
・・・

どんだけ自尊心下げてんねん!!(`・ω・´)

それが続く事により、私は、どんどん自尊心が低くなりました。(・・・かなりバカでしょ?笑)

プライドを捨てて自尊心をあげる

だからこそ、プライドが高くなりました。
一見プライドが高い人は自尊心が高く自分に自信があると思われがちですが、
実はそうではありません。(例外もあるかもですが)

よく

「私は●●でなければならないの!!」というと
「プライドが高すぎるんじゃん?」っていう会話がなされます。

しかし、「~でなければならない」という心情のうらには
「私は●●な人間でなければ、価値がない」が隠れているケースがあるんです。

これは、子どものころの親の育て方の影響が大きいと考えられています。(これについては、別記事で書きたいと思っています。)
自分自身の存在価値というのを、●●で補い
プライドを保つ事で、自尊心が低い部分を補っている(た)
のだと思います。
自尊心が高い人というのは、自分で自分を評価する力が高いということですから、
わざわざ他人から「こう見られなければ!!」などといったプライドをもたなくてすむのです。
よく「プライドを捨てれば楽になる」というフレーズがありますが、
そりゃそーだよね。
プライドを捨てる事が出来たってことは、自尊心を上げるスタート地点にたったってこと。
自分で自分を褒められるんだから、他人の評価に敏感にならずにすむよね。
ちょっと話が脱線気味になってしまいましたが・・・戻すと、
人を悪者に出来ないと、そこに起こった負の出来事の責任を全て自分で背負う事になり、自尊心を下げてしまう可能性があるのではと考えます。
そうやって、背負わなくていい責任を背負って「苦しい苦しい~」って言ってた私、

なんだか、こっけいでしょ?

29d
私は自尊心を下げない!!傷つけない!!
自尊心を守る為に、他人を悪者にする時があってもいいと思う!!

ただ、その時に悪者にしても、「キライ」になる必要はないということです。

私のブログを続けて読んでくれている人は気付くと思うけど、
私の書いているメンタルヘルスやセラピーは、自己啓発やコミュニケーションの思考とは繋がってはいるものの、対になっている事があります。
何に対してもやり過ぎれば支障が出るということ。

case-by-case

原則に囚われず、その時、その時に適切な判断力を持つことが大事ですね^^

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人を「嫌い」にまでもっていかないニュートラルな姿勢~平・等~

「知佳って絶対人の事、”全部”悪くいわないじゃん。必ず『でもね、この人は○○○○な良いところもあるんだよー』って悪いところがあっても、ちゃんと他のとこも見てるから、そういうとこが好き。」
と、言ってくれる方がいて、自分でもそこで言われて気付いたのですが、私のベースに「人の悪いトコより良いところを探そう」があるんです。
これは小学校の頃に担任してくれた大好きだった先生の教えでして、この言葉に小学生ながら「なんて素敵な言葉だっ!!」と思って実行するようになったのが始め。
「やだなー」という部分を見たからといって、それがその人の全てではないのはもちろんのこと、その人自身のコンディションや、その場の条件によってもなされた結果かもしれない。だから、そういう部分もあるんだねって思うのです。
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よくこのブログで書いてるけど、人って一色じゃないんです。色んなカラー(要素)をもっていると思うんです。< だから、たまたま自分と違う色を見たとして、ミスマッチしたとしても、絶対値として「キライ」のポジションにはもっていきません。
常に人に対してはニュートラルな姿勢で対応したいというのがあります。(もちろん「好き」であっても)
「キライ」という感情があると、相手のせっかくある「良いところ」に気付きにくくなってしまいます。
それって自分が損してる気がしませんか?
また自分自身、フィジカル的にも多かれ少なかれ影響は出るはず。
「キライ」という感情で無意識に自分自身が身構え、身体を緊張状態にします。
緊張した状態というのは、身体にとって大きなストレスとなります。
“キライキライも好きのうち”という言葉がありますよね。
まず、なんで「キライ」になるのですか?って事なんですけど、自分が相手に何らかの期待をするからなのだと思うんです。
期待っていっても、そんな大きなものではなくて無意識にしている期待です。
もっと砕いて言うと・・・自分の「~であろう」という”自分に都合のいい勝手な想定“であり、「予想図」「イメージ」と言ってもいいかもしれません。
その自分が準備していた想定と違った色を出されたことに対し、負の感情をいだくからなのだと思います。
負の感情とは、悲しみかもしれませんね。。。

なので「キライ」になる以前に、自分にとって”特別”だったり何かしら”意識する存在”であるということ。
逆を言えば、期待もしないどうでもいい、関心のない人に対しては「キライ」の感情すら抱くことはないと思うのです。(この場合、凄い嫌がらせをうけたり等は含まれません)

人を嫌えば「好き」同様に「キライ」を意識しているわけだからそれなりに神経を使っているということになりますよね。
しかも「好き」という感情の場合は、どちらかというと「プラスの思考」なので、その感情に任せて自分の無意識にしてしまう行動を楽しんでもいいのかな?と思っていますが、「キライ」って「マイナスの思考」になるので他のマイナス要素も引きつけてしまうわけです。汗
最終的に、自分自身をも嫌いになり兼ねません。
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私はアンデルセン童話とかイソップ物語だとかの影響かもしれないけど…
全ての人に対して平等でいたいという想いがずっと子供の頃からあります。(このバカ真面目な正義感のせいで、過去、自分の首を絞める段階があったのでむやみに「平等」を掲げませんけど)
学生時代も人権問題として、部落差別や人種差別等の授業で「平等に!!」を学ぶと思いますが、いつの間にかその姿勢が私にとって無意識なところにまでストンと落ちていました。
私は光の裏に影があると知って光をみるし、影があるからにはそこに光があることを意識しているようです。
だから人に興味あるし、無関心には滅多になりません。
目に見える部分を見ることは簡単だから誰にでもできます。
学び、人として成長するって事は、影であるシャドーを見る能力を身につけて行くという事だと思うのです。
もうね、これは磨くしかない!!
だから物事であれ人であれ「キライ」がそこに存在するなら「好き」の可能性があると思うし、
白黒はっきりさせる事は悪いことではないけど、可能性を狭めるので私はしないように努めています。
だからこそ、どの人に対しても常にニュートラルでいたいと思うのです。
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どんな人にも神様から授かった素敵な部分がある。
それを見つけるのって「宝探し」っ☆ 見つけよう!!宝を!!

あー・・・気が付いたらまた長文に!!!
ココまで読んでくれた方、ありがとうございました;